花魁(おいらん)とは
女性の憧れ、美しく気品の高い花魁。
花魁とは一体どのような人達なのでしょう。
「花魁」とは、吉原遊郭の遊女で位の高い者のこと。
18世紀中頃、吉原の禿や新造などの妹分が、姉女郎を「おいらん」と呼んだことから、上位の吉原遊女を指す言葉となった 。その語源は、妹分達が「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているという諸説がある。
花魁の歴史
日本に最初に遊郭が出来るのは天正十七年(1589年)、京・万里小路二条の南「京の柳ノ馬場(新屋敷)」である。のちに江戸吉原、京島原、大坂新町を合わせて、日本三大遊里と称される様になるが、これらの遊郭は豊臣秀吉が全盛を誇った桃山年間(十六世紀後半)から徳川家康が天下統一を果たした江戸初期へのわずか三○年の間に成り立ったのである。
その中でも江戸吉原は、幕府から正式に営業許可を得て、日本で初めての公許の遊郭となる。
花魁の厳格な階級について
遊女には厳格な階級があり、その待遇にも歴然とした差があった。妓楼が遊女同士を競わせ、客に見栄を張らせ、売上を伸ばす為である。下級の遊女と一夜を共にするのとは異なり、位の高い遊女を揚げるには様々なしきたりが存在し、そもそも二回目までは口も利かず、飲食もせず、客は品定めをされ、三回目にしてようやく馴染みとなる。吉原の遊女というとすぐに「太夫」が思い浮かぶが、遊女の最高位を表す太夫の名称は、実際には宝暦(一七五一~六七年)の頃に消滅している。
花魁の階級
- 上級遊女【花魁】・・・呼出 / 昼三 / 付廻 / 座敷持 / 部屋持
- 下級遊女【新造(しんぞ)】・・・振袖新造 / 番頭新造
- 禿(かむろ)
「花魁」と聞いてまず、頭に浮かぶのが高い三枚歯下駄をはき、豪華な衣装を着て、ゆっくりと八文字歩きで練り歩く、「花魁道中」を思い出す人が多いのではないか。もともと、太夫などの上級遊女と遊ぶ場合は、客はいったん揚屋と呼ばれる店にあがり、そこに遊女を呼び寄せるという仕組みだった。太夫が妓楼から揚屋に出向くときは、煌びやかな衣装を身にまとい、多くの供を引き連れ、仲の町を静々と行進した。これが花魁道中の始まりである。そして、蝶々の羽の様に広がった髷(まげ)が特徴の髪型は、最高位の遊女である太夫しか結えなかった兵庫髷の一種「立(伊達)兵庫」という。大きな櫛を二枚挿し、簪は前後合わせて十六本。ほかにも長い笄(こうがい)を挿したりととても華やかなものであった。白練の下着を二つ重ねにして、黒糸で紋が刺繍してある緋縮緬(ひぢりめん)の上着を着、萌黄地に金襴の帯を締めた「豪華絢爛」な衣装で練り歩く姿は、数多くの浮世絵や綿絵にも描かれる程美しいものであった。
「男一度は大門を打つ」という言葉があるが、これは江戸の男の夢であり、遊郭吉原への唯一の出入り口の大門を打つ、すなわち吉原を一人で貸しきるという行為を意味する。それ程、花魁というものは、遊女にならなければならなかった悲しみ、苦しみ、そしてそれを知る女の強さ、美しさ、プライドを持った女性といえるであろう。
様々な花魁に関する知識をコラムにしております。
是非こちらのサイトもご覧ください。
闇の夜は吉原ばかり月夜かな